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船場印刷について

代表取締役社長 藤塚 謙次郎

姫路の地で60年。変わらないもの。変えてはいけないもの。代表取締役社長 藤塚 謙次郎

焼け跡の残る姫路のまちで。

創業者である藤塚利雄が戦地から復員後の昭和27年、この姫路の地で叔父と姪と3人で印刷屋を開業したのが船場印刷の始まりでした。間口二間の民家に活版印刷機が一台。まだ焼け跡の残る姫路のまちを自転車で走り回っていたと聞きます。当時の姫路は製造業が盛んで大きな工場がたくさんありましたが、そこはすでに歴史のある印刷会社が入っていました。新参ものである当社は地元商店街の商店がお客様。一店一店訪ねては封筒や伝票などの注文をいただいていたそうです。

叔父と二人で印刷屋を開業

ハイデルベルグとの出会い。

昭和37年、ハイデルベルグという西ドイツ製の印刷機を買います。値段は当時のお金で90万円。国産機の3倍もします。当時の船場印刷にとってはかなりの冒険でした。もちろんそれだけの魅力がありました。それまで使っていた国産機は1時間に3000枚が限界。けれどこの機械なら5500枚も刷れます。しかも1日中回しても壊れない。インキ汚れも出ない。利雄はこの機械に惚れ込みました。それ以来、船場印刷ではずっとハイデルベルグを使っています。ちなみにこのとき買ったプラテンT型という機械、今でも現役で動いています。

プラテンT型

二度の引っ越し。

昭和40年になってようやく引っ越しをすることになります。事務所が狭すぎて新しい機械が入らなくなったからです。利雄は実家の田んぼを一部手放し、千代田町に鉄筋3階建ての工場を立てました。しばらく後にその工場の上を新幹線が走ることになり、その補償金で今の場所に移ることになります。自転車はスクーターに変わっていました。同じ頃中学の先輩の伝手で東芝さんの仕事をさせてもらうようになりました。利雄が提案したアイデアで製造効率が大幅に改善したことがあり、東芝全社の中でも表彰されたりしました。

新社屋竣工披露会の様子

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